次郎長狂いのにわか江戸っ子が親分にまつわる映画『次郎長三国志』に関するあれやこれを詰め込んだサイトでい。

次郎長三国志とは

清水次郎長を主人公とする村上元三の長編歴史小説、並びに同作を原作とするマキノ雅弘監督の映画シリーズのタイトル。なお本作における「三国」とは駿河国(現在の静岡県中部)、遠江国(現在の静岡県西部)、三河国(現在の愛知県東部)のこと。
「海道一の侠客」と謳われた清水次郎長については、当人の活躍している当時から巷間様々な伝承をもって語られていた。そうした虚実入り混じる次郎長像を一つの創作物に纏め上げたのが、広沢虎造(二代目)の浪曲である。この浪曲では、次郎長を始め森の石松や桶屋の鬼吉など「次郎長一家」と呼ばれた人物にもスポットが当てられており、特に石松は次郎長に勝るとも劣らぬ人気キャラクターとなった。
この広沢の浪曲や、その他の資料伝説を元に執筆されたのが村上元三の小説「次郎長三国志」である。この作品は「オール讀物」誌上において昭和27年(1952年)6月号から同29年(1954年)4月号まで連載された。GHQ統治下においてチャンバラが禁制とされていたが、占領終結により解禁となった直後という時代背景もあって、読者の熱狂的な支持を受け、村上の代表作の一つとなった。
しかし一方では、村上による次郎長一家の大胆な脚色が専門家からの「事実に悖る」という批判を蒙る事にもなった。また広沢の浪曲で馴染み深い「江戸っ子だってねぇ、寿司を食いねぇ」という石松の名場面も登場せず、創作としても一部から批判を受けた。とはいえ各章ごとに(次郎長を中心にしつつも)異なるキャラクターに焦点を絞って描かれた構成と、何より確かな筆力で読みやすい作品に仕上がっている。この作品は次郎長の出世から、没後に浪曲師神田伯山によって「創作」が生まれるまでが描かれている。なお、この伯山の作品をベースにしたのが前述の広沢虎造である。

侠客とは

強きを挫き、弱きを助ける事を旨とした「任侠を建前とした渡世人」の総称。ただ、博徒や浪人、農村の疲弊による離農者など、封建体制における無法者・ヤクザが自らの存在を正当化する場合に用いた自称でもある。
基本的に侠客なる職業は歴史上存在せず、封建時代における風俗の形態の一つとして捉えるのが一般的である。
中国の春秋時代から義侠に厚い人々がおり、施しの見返りとして恩人に対し法を破り命を果たしてでも礼を果たしていたという。戦国時代に登場した戦国四君は食客として侠客を採用し活躍したとされている。史記に「遊侠列伝」という侠客の記述が残され、また前漢を築いた劉邦も最初は侠客であったとされている。
日本の室町時代における悪党が土地に縛られず法外者であったのに比べ、江戸幕府は宗教と住居の両面から大衆を支配している。決められた場所で決められた支配者に従い、貢納することで競争による脱落が生じずに生活が保障されるのが封建時代の特徴であり、農村経済の破綻までこのシステムが運用されていく。
但、17世紀初期に幕府が大坂や江戸の橋や河川、主要道路を整備して都市機能を持たせる政策を打ち出した時点ではまだトップダウンだけでは無理があり、多くの牢人に労務管理としての口入業を行わせている。彼らが独自に生み出した珍奇な衣装、言動といったものが都市文化の風俗として捉えられたのが侠客である。これと同時に武士階級であっても存在価値を問われている遊民たちも独自の「風俗」を生じている。すなわち無為無禄の状態に置かれた旗本の次男以下からなる旗本奴。旗本奴に反発する庶民による町奴と謂われる者が侠客であり、19世紀の浮浪(博徒も含まれる)とは大きく意味合いは異なる。
宮崎学が愚連隊の元祖と呼ばれた万年東一を評した説明が、最も理解しやすい。すなわち、闘争の場も「遊び」とする者たちであるホモ・ルーデンスがその精神を発露する現象である。社会的制度や圧力を前にして、友愛や恋情ではなく自己の勇気により自己保存の本能を乗り越える形である。但、この発現の過程については、ただ現象として「ある」としか説明はないため理解しづらい面が多い。万年自身は、後に作家となった安部譲二に「平気で損ができるのが任侠で、損ができないのは任侠ではない」と喝破している。

過去の有名侠客

幡随院長兵衛
黒駒勝蔵
国定忠治
大前田英五郎
笹川繁蔵
新門辰五郎
飯岡助五郎
会津小鉄
吉田磯吉
佐原喜三郎
相模屋政五郎
田代栄助

次郎長の評価について

元県議会議長の村本喜代作は駿州政財界の御意見番である一方、山雨楼主人などの名で表裏の歴史を判りやすく筆にした。子母澤寛も取材の折に地方史を村本より教授されたとされる。昭和55年(1980年)、静岡の日赤病院に入院中の村本は作家の藤田五郎と面談した際に「安東文吉(駿河の大親分)は弟の辰五郎と浪人小泉が参謀にいなかったら大親分になれなかっただろう。次郎長は山岡鉄舟との出会いがなかったらここまで大物にはなれなかっただろう」という言葉を残している。

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